生い立ち

気弱でネガティブで自信がなかった。いつも何かから逃げようとしてきた。

だけどその度に、優しく手を差し伸べてくれる人たちがいた。

今僕がここにいるのは、その人たちのおかげ。

もらってばかりじゃダメだ。今度は僕が与える番だ。

 

はじめまして、けいたんといいます。

現在、これまでのボイストレーナー経験や自身が歌から学んだたくさんの財産を生かし、
「一人でも多くの歌うまを増やし、歌うことの楽しさやそこから得られる大きな喜びを感じて欲しい」という思いで活動しています。

気弱でネガティブで自信もない。
そんな暗い心を持っていた僕が、今の前向きな生活に至るまでのお話をします。

目次

宇宙人みたいな顔

昭和60年10月8日。父は演歌歌手、母も元歌手という両親の元で生まれました。

生まれた時は宇宙人みたいな顔で、みんなビックリしたそう。心配しかなかったみたいです(笑)

兄弟はおらず、一人っ子。愛情を一心に受けて育ったと思います。親戚のおばちゃんとかもすごく可愛がってくれて。。感謝しかありません。

そんな環境だったから、基本的にマイペース。(今でも)
1人遊びが好きで、ミニカーとかチョロQとかよく走らせてた。

かといって友達がいなかったわけではなく、同じアパートの隣に住んでた家族の子供たちとは特に仲が良くてよく遊んでました。

僕より5つ上の女の子と4こ下の男の子。
兄弟がいなかった僕にとっては本当の兄弟みたいな存在で、とても楽しかった。

おねしょが止まらない

幼稚園に入る前日、母から「ケイタ、明日から幼稚園だよ。」と言われたのを今でも覚えています。とにかく弱虫な僕は不安でしょうがなくて、泣いてたんじゃないかな。入園の時の写真が今でもあるけど、その不安そうな顔っていったら目も当てられない(笑)

でも、担当の先生がすごく優しい人で、色々とサポートしてくれました。友達とも仲良く過ごせたのは、先生のおかげだと思います。

人見知りな僕は、最初はおとなしい。だけど慣れてくると調子に乗りやすい。
幼稚園に慣れると、わりとわんぱくで、石で野球をやって僕が投げた石が友達のおでこに当たっちゃって、怪我をさせてしまったことがあります。まなぶ君っていうんだけど、まなぶ君はもちろん流血。母と一緒に家まで謝りに行きました。まなぶ君、あの時はごめんなさい!

まず、石で野球をやるのがおかしいですよね。今の時代だったらもっと大変なことになっていたかもしれません。

そんなこんなで、楽しい毎日を過ごしてたんですが、僕を悩ませることがひとつありました。おねしょです。

恥ずかしい話だけど、結局小学生の高学年まで治らなかった。
なんか、嫌になりましたね。なんで、しちゃうんだろう。子供ながらにすごく悩みました。親にも申し訳ないし。

ほぼ毎朝、その処理を母がしてくれるわけです。
その度に布団を干して。だけど母は僕を責めることはなかった。
黙って受け入れてくれました。その優しさに感動です。
あ、今はさすがにしてませんよ。気づいたら治ってました。良かった。

野球に夢中

小学生の時は、本格的に野球にハマりました。
父が野球好きで、仕事が休みの日には一緒に遊んでくれました。
父は演歌歌手という職業柄、地方に行くことも多く、一度行ったらなかなか帰ってこなかった。だから、一緒に遊べるのがより嬉しかった。

使い古した靴下を丸めてガムテープで固定してボールにする。
それを父が投げて、僕が打つ。とにかく楽しかった。

少年野球チームにも入りました。
ところがここで持ち前の気弱さを露呈。入った当初は環境に慣れず、とにかく練習に行きたくなくて当日にコーチの家に電話をかけて「自信がないので休みます。」と伝えたことがあった。

だけどコーチに、「どうした。大丈夫だから来なさい。」と言われて渋々練習に向かった。その先はよく覚えてないんだけど、いつの間にか環境にも慣れてチームメイトとも仲良くなって楽しく活動が出来ていた。

あの時のコーチがいなければ、僕はチームを辞めていて野球の楽しさを味わうことが出来なかったと思います。コーチ、ありがとうございました。

野球に関しては、自分で言うのもなんだけど、センスは抜群で1人だけ上級生の試合に助っ人として呼ばれていたこともあった。

当時の夢はプロ野球選手。卒業文集にもそう書いた。
そのために中学受験して、本格的に野球をやろうと思っていた。
その時までは。。

暗黒時代

受験を終えて無事中学校に入学。
滑り止めとして受けた学校だった。いくつか受けたんだけど、結局ここしか受からず。横浜のほうにある中高一貫の男子校だった。

なぜか僕は男子校に強いこだわりがあったから、受けた学校全部男子校。
その年頃特有の女子に対する嫌悪感や恥じらいみたいなものがあったんだと思う。今考えるとちょっと後悔してます(笑)まあ、僕の1つ下の学年から共学になり女子が入ってきたことが結果的に救いだったんだけど。。

とにかく野球をやる。その気持ちしかなかったから、もちろん野球部に入部。
だけどここでも持ち前の人見知り&気弱さが発動。
小学校の時とは違って、至る所から部員が集まるから規模が違う。

大人数も苦手だった僕は「こんなの無理だ。」と感じ、数回練習に行っただけで退部。
この意志の弱さって言ったら情けないですね。

思春期に入り、精神的にも不安定。
人間関係も上手くいかない日々でした。

なんとかしたいと思って、2年の時のクラス替えで、最初に1人づつ自己紹介をする時間があったんだけど、そこで僕は父が演歌歌手であることを伝えた。
父親が演歌歌手ってなかなかいないはずだし、インパクトもある。
きっとみんなとも仲良くなれるはず。

そう思ってたんだけど、現実は逆。
バカにされることのほうが多かった。「あいつの親父、演歌歌手なんだってよ。」
それを聞きつけた他のクラスの生徒からも小声で笑われたこともあった。
正直辛かった。

そのこともあり、僕は父のことが大嫌いになった。
家に帰ってもほとんど口を利かなかった。
「なんで演歌なんてダサいことしてるんだよ。死ねばいいのに。」
本気でそう思っていた。

とにかく僕の中学時代は暗黒そのもの。
友達も限られていたし、精神的にも不安定。嫌なことがあるとすぐキレたりした。なんの希望もなかった。

アメフトとの出会い

そんな空虚な中学時代が過ぎ、高校生となった僕はこのままじゃまずいと思っていた。中高一貫だからそのままエスカレーターで進学。
周りの環境はほとんど変わらない。

そんな時、1人の友達が「アメフト部の体験に行ってみない?」と誘ってくれた。馴染みはないけど、かっこ良さそう。あまり人数もいなそうだし、なによりアメフト部は高校にしかない部活だった。「1からやり直せるかも。」

そう感じて、僕はその友達と体験に行った。
そしてこれが予想以上に楽しかった。アメフトというと激しくぶつかったり転んだりのイメージが強かったが、体験ではボールを投げたり取ったりを繰り返した。

もともと野球をやっていた僕にはそれが楽しかった。
自分が持っているものを生かせるかもしれない。そう感じた僕は入部を即決した。

それからというもの、アメフトにどっぷりハマった。
授業中もアメフトのことしか考えてなかったくらいだ。「早く放課後が来て欲しい。」
まさに僕にとっての青春そのものだった。

弱い自分を変えたくて、筋トレにも励んだ。
明らかに体もデカくなった。中学の頃にバカにしてきた奴らもこの頃には何も言わなくなっていた。

その時のチームメイトとは今でもたまに会っている。
それは僕にとっての財産で、会うたびに大人になっても変わらない大切なものを思い出させてくれる。

大学デビュー

大学は心理学科に行きたかったんだけど、点数が足らず商学部へ。とことん本命とは縁のない人生(笑)だけどこの大学時代も楽しかった。

アメフトはサークルで続けました。
サークルだから高校の時よりはゆるい雰囲気だったけど、楽しかった。
練習以外でも飲みに行ったり、ドライブに行ったり満喫した。

そしてなにより楽しかったのは、クラスメートとの交流。 
英語の他にもう一つ第2ヶ国語の授業を選択するんだけど、何を選択するかによってクラスが決まる。僕はフランス語を選択した。(なんとなくカッコイイなと思っただけ)

クラスは約10名くらいの少人数。
そして、ここでも持ち前の人見知りは炸裂。限られた友達と仲良くできればいいやと思っていた。

大学といったら飲み会は定番のイベントで、当然クラスでも催されることになる。仲が深まってくるといわゆる「宅飲み」も始まる。
もちろん、僕は最初あまり参加しなかった。昔からそういう集まりには苦手意識があった。いくら誘われても断り続けていた。

だけどそんな中、挫けずに誘い続けてくれた女の子がいた。
年齢は僕の1つ上だけど、同じ学年で同じクラスだった。
「きなよ、きなよ!」って何度も誘ってくるもんだから、最終的に根負けして初めて宅飲みに参加することに。

これが楽しかった。
音楽をかけながら盛り上がる。バカなことを言っては笑いあう。
その当時、大塚愛やORANGE RANGEが流行ってて、みんなでよく聞きながら楽しい時間を過ごしました。

高校の時とはまた違う青春の形。
髪を伸ばして染めたり、パーマかけたり、完全に色気づいたのもこの頃。
文字通り、大学デビューを果たしたのでした(笑)

結局クラスメートとは大学4年間ずっと仲良かった。
今でもたまに集まってはそれぞれの近況を話したりしてます。

まあそれも、あの時僕を誘い続けてくれた子がいなければなかったことです。その子には本当に感謝しています。

無鉄砲

大学卒業後の進路は特に考えていなかった。
就活も一切しなかった。育ってきた環境なんだと思うけど、父がいわゆるサラリーマンではなかったから、自分もそういう風に生きていくのが当然だと思っていた。

中学の時に父親が演歌歌手であることをバカにされ、それをきっかけに父のことが大嫌いになった。ダサい生き方してるな。と思っていた。
だけどそれは憧れの裏返しで、実は心の底では尊敬してた。
自分の信じた道をまっすぐ進む父が羨ましかっただけなんです。結局僕は父を見て育った。

だから自分もそういう生き方をしたい。
だけど、なにしよう。そうだ歌だ。歌をやろう。
演歌は聴かないから、ポップスだ。ポップスの歌手を目指そう。
こうして僕の進路は決まりました。

気弱で自信がないわりに、理想が高くやりたいことはやるという頑固でめんどくさい、自分らしい選択だった。

ほんと無鉄砲以外のなにものでもない。
音楽の専門学校に行ったわけでもない、バンドを組んでたわけでもない。
だけど歌は好きだったし、カラオケに行った時にも友達に褒められることが多かった。ただそれだけでした。

そのことを両親に伝えると、なにも言わず応援してくれました。
父からは「厳しい世界だぞ。」と一言、そう言われました。
重い言葉でした。

現実は甘くない

歌手を目指した僕は大学卒業直前に、都内のボーカルスクールに通い始めた。そのスクールは施設やオーディションなどが充実していて、ここしかないと思って決めた。

そこで本格的にボイストレーニングを始めた。ピアノやギターも1から習い、曲作りもするようになった。
バイトしながらオーディションを受けたり、ライブをしたりする日々。

そう上手くはいかなかった。
周りは就職し、結婚する友達も増えてくる。焦りがあったし、この先が不安だった。ただでさえメンタルの強くない自分だからなおさらだった。

だけどその一方で、自分自身には明らかな成長を感じていた。

歌を習い色々と学ぶことによって確実に上達していたし、それが自信にもなっていた。ライブなど人前で発表する機会もあることで、性格も明るく前向きになったし、普段の話す声も大きくよく通るようになっていた。気づいたら人見知りも改善され、人間関係も良好になっていた。

久しぶりに会った友達からも「変わったね!」と言われるほどだった。
それが嬉しかった。歌手として目に見える結果は残せてないけど、この道を選んで良かったと思った。

ボイストレーナー

歌を通して得られる自信や喜びをもっとたくさんの人に伝え、感じて欲しいと思った僕は、教える仕事に興味を持ち始めた。
いわゆるボイストレーナーという仕事だ。

幸いなことに、教えた経験がなくても受け入れてくれる職場が見つかり、そこでボイストレーナーとしてのキャリアを始めた。この時はまだ自分の音楽活動も並行しながらだった。

その後、僕が歌手を目指すと同時に通い始めたスクールの担当の先生が「うちでトレーナーをしないか?」と声をかけてくれたことをきっかけに本格的にボイストレーナーの道を歩み始めた。

そこでは、教えることの難しさを思い知り、苦労も多かったが、とても多くの生徒さんに出会い、人と人との心のつながりの大切さも学んだ。とても自分自身成長をさせてもらいました。

なにより担当の先生の推薦がなければ、現在に至るまでトレーナーとしての道を歩んでこれなかったと思います。先生、ありがとうございます。

音痴で悩む人を助けたい

僕がトレーナー生活で感じたことは、「歌は好きなんだけど、音痴な自分が嫌い。」「歌うのが苦手だから、カラオケに誘われても断っちゃう。」と悩んでいる人がとても多いなということです。

気弱でネガティブで自信のない僕は、歌を通して変わることができた。
初めて自分自身の根底から成長できた。

だからこそ、音痴で上手く歌えずに悩んでいる人たちを助けたい。
その先にあるたくさんの喜びを一緒に共有したいと思っています。

歌を通して自信をもち、生活をより豊かに過ごして欲しいという想いで音痴お助けサポーターをしています。

上から指導するトレーナーではなく、横から寄り添うサポーターでありたい。
気弱でネガティブで自信もなかった僕だからこそ、あなたを優しくサポートします。

一緒に音痴を脱却しましょう♪